ヨーガと宗教

宗教という言葉がひどく誤解されているのは重々承知しています。

それでも敢えて、ヨーガは宗教であると言ってみたい。

 

ともすると「ヨーガは宗教にあらず」と語気も強く語られるし、私も実際にそう教えられてきましたが、なぜここまで執拗に宗教でないと主張しなければならないかというと、ヨーガは紛れもなく宗教であるからです。あるいは、宗教と呼べるものでしか扱えない問いを、ヨーガはその根本に据えているからです。

 

問題は、宗教にあらずと主張しなければならない現状のほうであり、要するに宗教というと「おことわり」されてしまうのが普通なわけです。「宗教」はどこに行ってもまずは嫌がられるものであるのは周知のとおり。

 

しかし、ヨーガが伝えるものは宗教に寸分違いません。

たとえば、「バガヴァッド・ギーター」などは最初から最後まで「これについて書かれていますが、

たとえば二章十八節、

 

全ての生き物は永遠不滅であり

その実相は人智によっては測り難い

破壊され得るのは物質体(にくたい)だけである

故にアルジュナよ 勇ましく戦え!

 

この文章を、宗教が扱うものを抜きに理解することなど到底不可能です。

 

にもかかわらず、ヨーガは宗教ではないと主張することでしか、生き残って来れなかったという、まぎれもない現実があります。

 

さらに、「ヨーガは科学だ」と説明されることが頻繁にあります。科学万能を、それこそ信仰のように信じ込んでいる今の時代に、ヨーガを科学的に説明することで信用を得ようというわけです。ここでいう信仰とは「確信」に対する「妄信」のこと。

 

たしかに、プラーナヤーマがどのように健康に良いかを科学的に説明できる面もありますが、そんなものがヨーガの説くものではないことは明らかです。

 

池田晶子さんによると、宗教とは、

「宇宙とは、なぜ存在すると君は思うだろうか。そして、この宇宙に、君の人生が存在するのはなぜだと思うだろうか。…科学はこの問いに答えることができない。…なぜなら、科学は、この宇宙が「どのように」存在しているかを説明するだけであって、「なぜ」そのように存在しているかと問うことは、最初からしないからだ。…このおそろしく素朴で、しかし決して避けられない問いに答えてきたのが、宗教だ。」(14歳からの哲学)

 

人間のエゴが宗教を騙るとことで、妄信となる。それを知っている我々は本能的に宗教を敬遠するのでしょうか。

しかし、本来、宗教とは池田さんのいうように人間の根源ともいうべきものです。これほど大切なものを、その他の妄信とひとくくりにして棄ててしまっていいわけがありません。

 

 

妄信による信仰と、自分の足元を掘り下げて行った果てにある確信とを峻別する必要があると思います。


広島にて

 先週、マインドフルネスの会の行われた、香川、ついで広島と、山下先生に付いて行って参りました。

日本とは本当に豊かなところですね、瀬戸内海でとれる魚介は絶品だし、瀬戸大橋から見る景色はそのまま世界遺産になりそうな、いつまでも見飽きることのない風景です。


さて、今回なんといっても目玉は、20数年ぶりで行った原爆資料館、平和記念公園です。

 

 

あの場所で見ることが出来るものとは、この世界の縮図というか、圧倒的な普遍性のようなものではないかと思います。

それをなんとかお伝えしてみようと思います。

 

 ガラスケースに収まった「平和宣言」の冒頭に、起こったことを簡潔に説明する文章がありました。


皆さん、72年前の今日、86815分、広島の空に「絶対悪」が放たれ、立ち昇ったきのこ雲の下で何が起こったかを思い浮かべてみませんか。」

 


ここでいう「絶対悪」。最悪の場合、絶対悪と呼べる形で現われてしまうものを、我々は、誰でも同じく持って、生きています。


これが「エゴ」です。
エゴは、ヨーガやスピリチュアルな伝統では、乗り越えるべき重要なものとして研究され伝えられてきましたが、表舞台にはこの問題はあまり出てきません。それだけ難しい問題だということ、軽々しく扱えるものではないということです。

エゴとは、広島で起こったことを見れば分かるように、誰ひとりとして得をすることのない、最悪の場合自分自身を含む全てを破壊しつくしてしまうものです。エゴが破壊をする様は、なにも広島のように圧倒的な悪として現われたものを見ずとも、少し周りを見渡せば、あるいは自分自身を省みれば、そこに見つけることが出来ます。

 

いいですか、エゴとは、一人一人がそれぞれに乗り越えるべきものです。

 

お酒やドラッグ、あるいは欲望を満たすことに依存することも、自分自身を破壊する行為です。その時は一旦満たされますが、これは一時的なものでしかないので、さらに求め続けて、最後は自分自身を破壊するところまで行くことも少なくありません。酒などの具体的、物理的なものに限らず、もっと抽象的な個人の歴史という物語によって、ネガティブなものを助長し続けることもあります。個人のストーリーによる劣等感、無力感、焦燥感というネガティブなものを誤摩化しきれずに、やはり破滅に至ることも稀ではないのは、少し周囲を見渡せばわかることです。

 

ところで、瞑想を続けていてたまらなく面白いのは、「私」の内で起こっていることが、覚めて観察できるようになってゆくことです。これはもうやみつきなります。 

「私」の内で起こっていることの多くはエゴによるものですが、わかりますか、ここで、エゴを外側から見ることの出来る在り方にシフトしているということ。
「私」はエゴとして現れもしますが、それを「エゴ」として外側から眺めることの出来る〈私〉として在ることもできます。

 

 

私というものは、二重構造として在ります。

 

私において世界は存在しますから、世界も二重構造として見えてきます。

 

広島で感じたものとは、絶対的な悪として現われたものと、それによって逆説的に明らかになったもう一つの絶対的なもの、この二重構造としての世界の縮図をそこに見ることによってではないでしょうか。そんな風に具体的に説明できるわけではないのですが、善も悪もない、その彼岸にある普遍性とでもいうもの、強く心を打つものです。


怒りの変容

怒りと言えば、ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハン師です。「怒り」という著書もあるほどですが、ハン師の壮絶な人生は、常に怒りや悲しみと向き合うものでした。

ハン師は、ベトナム戦争を契機として、内面と社会と両方にかかわるEngaged Buddhism「行動する仏教」の実践をはじめます。戦争に伴うあらゆる苦しみを間近に見ることで、自身の怒りに向き合い続けた人でした。

https://www.tnhjapan.org/thich-nhat-hanh

 


 

ハン師は「腹が立ったとき、どうしたらいいですか?」という質問に対してこう答えています。

 

「腹が立ったときは何も言ってはいけません。何もしないほうがいいです。自分に戻って、ゆっくり息を吸って、息を吐きます。それを何回かして、何か行動を起こす前に、怒りの面倒をみてあげます。これは平和の行動になります。

すぐに反応したりしないんです。自分の怒りの面倒のみかたを知っていれば、ゆっくり呼吸しながら「今のはカチンときた。でも別に反応して行動する必要はない」とわかりますし、「この人は今、幸福でないから、あんなことをしたのだ」と思えますから、その人に対して思いやりを持ち微笑みます。これは大きな勝利です。」

 

 

理解することで、怒りが変容するのだといいます。

 

 

その具体的な体験を話しておられますので、以下に記します。

 

 

 

ある村を焼き尽くした米兵の記事を読んだハン師は、強い怒りを感じます。

 

「そこで私は実践者として自分自身に立ち帰り、じっと「怒り」を抱いていました。心を静め、何日もかかってようやく加害者への慈悲を感じるようになりました。彼らは「村を守る」といいながら村の人を殺してしまった。それは彼らが「間違った認識の犠牲者」だからです。正しい理解・正しい見方・正しい考えを持てなかった。だから彼らに対して怒るより、むしろ助け出すべきなのだと。」

 

 


 今日お話したいのが、この、変容が起こる場所について。ハン師の言う「自分自身に立ち帰る」という自分自身についてです。

普段の私たちが、理屈であれこれ考えて怒りをおさめることなど到底出来ないということは、おわかりですね。

 

では、どこで怒りに向き合えばいいのかというと、「自分自身」、すなわち本来の自己で怒りに向き合うことで、初めて、怒りは変容することができます。

このあたりについてはまた詳しくお話しできればと思いますが、まずお伝えしたいのが、「この私」には怒りを正しく変容に導くことはできないのだということです。ほとんどの場合、怒りのままに行動する、怒りを正当化する、怒りに蓋をして無視することしかしていません。怒りもエネルギーですから、ネガティブなまま放っておくと連鎖を起したり、あるいは巨大なエネルギーにまで膨れ上がることもあります。それ以前に、怒っている本人が一番苦しい思いをしているはずです。その苦しさが連鎖を起すのですね、よく見かける光景です。

 

 

もちろん、変容が可能な場所とは瞑想で入ってゆく場所以外にありませんが、これについてはまたいずれお話いたします。

**NHK こころの時代 禅僧 ティク・ナット・ハン 第一回 「怒りの炎を抱きしめる」を参考にしました。オンデマンドなどで視聴可能ですので、是非ご覧下さい。**

前世について2

 

前世があるかないかというのは、この際問題ではなくて、言い方を変えるだけかも知れませんが「生き続けるか、生き続けないか」という、ここに対する直観が重要ではないかと思います。


Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever. 

明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。


これはマハトマ・ガンディーの言葉ですが、後半の「永遠に生きるかのように学べ」という文句に強い共感を覚えます。やはり、この手触りなんですよ。

善く生きる、あるいは、情熱を持って生きる、この世界を愛する、その所以とは。

その核にあるものが「生き続ける」ということに他ならないのではないかと思うわけです。

 

哲学者の池田晶子さんはこんな言い方をします。

 

どうせ死んでしまうのに

この半端な腹のくくり方が、いかに魂を堕落させることか。

(『残酷人生論』より)

 

『死後』もしくは『来世』の観念の有無で、人の幸福感は劇的に転換するのである。
(『あたりまえなことばかり』より)

 

生き続ける精神がはっきりと見えていた池田さんは、いろんなところで前世やら輪廻を思わせることを書いていますが、さすがにこういうことは相手を見てから話すのだそうです(笑)

 

生き続けるかどうか、実際にはわかりませんが、「魂の完成形としての「神」もしくは「善」が明らかに見えている限り、人生が今回限りであるにせよ、それは徒労で終わったことにはならないからである」と池田さんも言うように、一人ひとりの「神」もしくは「善」とのご縁、あるいは準備の出来があまりにレパートリーに富んでいるのは見ての通りです。人によっては「これ以前」に相当の準備をしてきたのだろうとしか思えない場合(まさに池田さんなど)もあります。そうであれば、どうせ死んでしまうのに、などという生き方は出来るわけがないはずです。

 

 

だって、生き続けるかもしれないわけですから、そして引き継がれてゆくものが確実にあるわけですから。

プラーナについて

プラーナとは、具体的に感じることの出来る、具体的なものであり、これを感じることが瞑想の入り口になるという重要なものです。ですから、ヨーガ・スートラの中でも実際にこの順番になっているわけです。

        1.ヤマ(禁戒)

        2.ニヤマ(勧戒)

        3.アーサナ(体位法)

        4.プラーナヤーマ(調気法) 

        5.プラティアハラ(制感)

        6.ダーラナ(凝念)

        7.ディヤーナ( 禅那)

        8.サマーディ(三昧)


このように、プラーナヤーマ以降の4つの段階は瞑想の段階です。

 

ところで、私たちヨーガ実践者は、実はこのプラーナには親しいはずなのですが、体系付けた実践をしなければ育てることが出来ませんし、プラーナを感じていても自覚すらせずに終わってしまいかねません。

 

私自身のことを話すと、最初にプラーナを感じる実践をしたのは瞑想メソッドにおいてです。そこではプラーナとは呼びませんでしたが、たとえば掌にピリピリと感じることの出来る「微細な感覚」などと呼び、ヨーガで勉強してきたプラーナであることは明らかでした。
ところで、現在の日本で伝えられているヨーガでは、プラーナを具体的に感じる実践はほとんど行われません。「プラーナとはこういうものである」と言葉で説明はうけ、我々指導員も一応言葉で説明することはできますが、具体的にプラーナを知っているかというと、そういう指導は一切受けませんので、一握りの勘の良い人たちが、あるいは自覚もなくプラーナを捉えている、というのが実状ではないかと思います。

 

しかし、プラーナを実際には知らずに言葉で説明することだけできても、何の意味もないではないですか。

 

プラーナの次元は、思考の働きがごく弱まっていった時に現れてきますので、その性質を利用して瞑想に入ってゆきます。

慣れてくれば、ヨーガや坐禅の間に限らず四六時中このプラーナを感じながら生活できるようになってきます。特にフッと落ち着いた時や、読書したり集中する場面で、常にプラーナを感じることが出来るようになります。これは非常に有効な、具体的な実践です。
なぜなら、プラーナをいつでも感じることで、強い思考パターンから逃れることが可能になるからです。この強い思考パターンこそ、我々を苦しめるものです。

そして、このプラーナを感じる実践は、どこでもできます。この実践は瞑想の一つですが、坐禅のように脚を組んで坐れる静かな場所でなくても、例えば電車の中、布団の中、公演のベンチや歩いている時でも、リラックスできる場所であればどこでも実践可能です。

是非、これを実践してください。とくに寝付けない布団の中など、この練習をすることで不眠などはほとんど解消してしまいます。私なんかはごくたまに寝付けないこともなくはないですが、2分もあればほぼ寝てしまいます(笑)。とくにヨーガ実践者はすでにアドバンテージがあるわけですから、これを活用しない手はないはずです。