思考が止まる

ヨーガとは心の作用を止滅することである

 

ヨーガスートラ 第1章2節。

 

心の作用を止めるとはどういうことか。

そもそも心とは何をさすのか。

 心というと、なにか暖かい、胸のあたりにあるものを日本人は想像するようですが、英語ではmindと言います。英語圏の人たちがmindと言ってどこを指すかというと、頭です。

ヨーガスートラの心とは、この頭のほうを指していて、広い意味で「思考」を意味します。

 

ヨーガスートラはその冒頭でいきなり「心(思考)」こそが問題であることを明示しているわけです。

問題は心であるとした上で、その働きを止めることが解法であると示しています。

 

どれほどの人が「心」が問題だと考えるか、しかし思考こそが「無明」や「マーヤー」あるいは「地獄」「悪」「罪」などと呼ばれるものの「もと」なのだという話はとりあえず棚上げして、「思考が止まる」ということについて書きます。

 

さて、心が止まったことがあるという自覚のある人はいないと思いますが、実は、思考の止まった状態を多くの人が経験しているものです。

 

どんな時に思考が止まっているのかというと、たとえば、毎年春になると一斉に咲き誇る桜の花、あれを見て、私たちはなにか感じるわけです。言葉にならない、なにかを、その一瞬、言葉にはならずとも桜の花を深く理解するというか、要するに感動するわけですね。感動は、正確には言葉になりえませんので、たとえば芸術家たちは、なんとかそれを捉えようと表現するわけです。

 

この一瞬、人は思考が止まって、見ているものをただ理解します。あるいは、世界の中に深く安らぐというか、とにかく、特別な一瞬ですね。人はこのことを「美しい」とか、「幸福」だとか形容するのだと思います。

 

思考は止まることがあるのですが、それを自覚するすることはあまりないようです。しかし、これはやはり自覚が必要で、思考ではない認識主体をはっきり自覚することが大切です。

それには、瞑想をたんたんと続けるしか、ない。

 

 

 

 

 


死について 1

死について話します。

 

私はヨーガを生業にしながら仏教瞑想を実践していますが、重心はもっぱら仏教の側に傾いています。

正確にいうと、実践を通して開けてくるリアリティーを深く学ぶのに、仏教や、あるいは宗教者の立場をとらず活動するエックハルト・トールや、哲学者の池田晶子さんなどのテキストに深く拠っています。(ところでこの縁もゆかりもないふたりは、驚くほど同じようなことを言いますが、それはまたいずれご紹介できれば)

 

一言で言うと、ヨーガの教科書よりもこっちの方ばかり読んでます。こっちの方が圧倒的に面白いから。

 

しかし、これらを学ぶことはヨーガを学ぶことに等しいと思っています。あるいはもっと効率がいい。実践を通して見えてくるリアリティーをもってすれば、ヨーガの聖典をリアルに読むことができてしまうからです。聖典を「勉強する」必要などないのですよ、聖典とは「謎」そのものですから、 聖典が読みたければ実際に「謎」に触れてしまうのが一番です。というか、それ以外に聖典を読む方法はないです。

 

今日は死について話しますが、この主題はヨーガにおいてもメインの主題です。

仏教や世界中の宗教がこれを主題にしているといっていいと思います。

 

人は生きて死ぬ、この大きな謎。

 

仏教では、死はないといいます。般若心経には「無老死」、老いも死も無いとあります。

そして、ヨーガの聖典の一つ、バガヴァット・ギーターでは、「滅ぶのはわたしたちの肉体であって、魂は永遠に残る」ということが繰り返し説かれます。

キリスト教では、十字架に架けられ息を引き取ったキリストが、墓に埋葬されたその三日後に復活する、というのがメインテーマです。

 

一様に、死なずに、なにがしか生き続けるものを示唆している。

 

 

ところで、私自身の、ヨーガ、あるいは瞑想を始めた理由は、死を乗り越えたい、などというものではまったくなくて、もっと瑣末な、同時に切実な、生きにくさそのものが理由です。しかし、瞑想を続けるうちに、実際に、死はないのだ、ということが徐々にわかってきています。

そして、この点がわかることによって、生きにくさも同時になくなってきている。

 

人を生きづらくさせるものと、死、あるいは死に対する恐れは、同じものであるということがだんだん見えてきます。

 

池田晶子さんは2007年に 亡くなりましたが、この人は死に対する恐れを持たなかった人です。やはり、「死はない」といたるところで書いています。そして、「わたしには確信がある」とも。

 

私は残念ながらまだ確信はできませんが、(この点をごまかしては決してならない)それでも徐々に死はないということに触れつつある。

 

そして、仏教とは、この「確信」をいいます。

 

死後の世界を信じる、などという甘っちょろいものでは、仏教は決してないです。


聖音0Mについて

 

ヨーガのセッションでは開始時と終了時にマントラを唱えますが、その最も短くシンプルなものが0Mです。

「オウム」と呼びますが、実際には「オーウーン」と発音します。

 

マントラとは、真言のことです。

マントラは、何度も繰り返し唱えることによって思考や感情を鎮めることを狙います。その時にネガティブな言葉では鎮まるものも静まらないので、よい言葉、神聖な言葉を唱えます。

 

その、最も短い、万物の始まりから終わりまでを意味するマントラが、聖音OMである、ということです。

 

しかしこのマントラ、日本においては大きな差別を受けてきました。いうまでもなく95年に起きた地下鉄の事件による影響です。

マントラのみならず、市民会館などは軒並みヨーガサークルの施設利用を断り、ヨーガ教室は生徒数が激減したといいます。ヨーガそのものが世間から白い目で見られる時代が続きました。

 

ヨーガはこの時に、マントラや瞑想など宗教を匂わせるものを全て諦めて、体操に専念するという形をとり、なんとか生き残ってきた事情があります。数年前に大きなムーブメントとして起きてきたマインドフルネス瞑想が、巷のヨーガスタジオでも開催されるようになってきた現在、時代が変わりつつあるのは確かですが、まだ、宗教に対する偏見が脈々と生き続けているのも事実です。

 

そして先日、23年の時間を経て、ついに刑が執行されましたが、私も少なからずショックを受けました。

実は、一部の理解のあるクラスでは以前からオウムを唱えてましたが、全てのクラスでもつい先頃からマントラを唱えるようにしていました。これは皆さんだけでなく、私自身の自己規制をも払拭するのが狙いだったのですが、この日はさすがに唱えることはできませんでした。

 

 

ところで、勿論のことですが、日本を一歩出れば、OMはヨーガにおいて最も大切なマントラにすぎません。それはカルトを思い起こさせるものでも怪しいものでも不快に感じるべきものでもありません。

 

そして、これはマントラに限ったことではなく、この国で生きる我々は「宗教そのもの」に対して不信感を持っています。

 

 

このあたりをどう整理してゆくか、引き続き考えて行きます。

瞑想を始める

 

なぜ瞑想をするのでしょうか、何かを得るためですか。もしくは、ほかにはなにをやってもうまくいかなかったからでしょうか。瞑想を始めるといっても、色々と動機はあると思いますが、一番大事なことをお話しします。

 

一つ明らかなのは、瞑想とは、他の誰でもない自分自身の心を扱うものだということです。

人は、自覚するしないに関わらず、それぞれに問題を抱えながら生きていますが、それら様々な問題をどうやって解決するか、これが鍵です。

何か欠落によって問題があるならそれを満たすことで解決するし、状況に問題があるなら状況を変えればいい。

 

はたしてそうでしょうか。

 

一見うまくいきそうですが、そううまくいかないことは経験的にわかるはずです。ですから、問題は次から次へと起きてきます。問題とは、終わることなく起こってくるものです。

 

なぜなら、人の心はあらゆるものごとを問題視することに長けているからです。

このことを仏教では「分別」と言いますが、良い意味ではなく、ものごとを判断して「良い」「悪い」と仕分けすることを指します。ものごとにたいしてあれこれと思考を働かせて、いらぬ心配をしたり、何度もなんども後悔したりする。ものごとを問題視することこそ、われわれの思考の主な仕事です。

 

そうやって、次から次へと起こる問題をなんとか解決しようともがき続けるうち、自分を取り巻く「外の世界」をどうにかすることで問題を解決しようとするベクトルは、そもそも違うのじゃないかとだんだんわかってきます。問題は、自分を取り巻く世界を問題にしてしまう、自分自身なのではないか。

 

この、自分自身にベクトルが向くことによって初めて瞑想は始まります。

ここがスタートでもあり、そしてまっすぐゴールにつながってゆくところでもある重要なところです。

ところが、「状況や他者が問題なのではなく、それらを問題視する心が問題なのだ」ということに気づくのはそうたやすいことではありません。この難しさが、そのまま瞑想を実践する、あるいは実践し続けることの困難さに現れてきます。

 

瞑想で深めてゆく、この探求以上に意味のある探求はないという確信を、未熟ながらもヨーガを通して日々お伝えしていますが、もちろん私自身の拙さも理由ではあるでしょうが、実際に瞑想を始める方はもちろん、始めたはいいが続ける人はほとんどいません。私にとってそういう状況を目の当たりにするのは本当に勉強になります。人間の心とは、いったいどういうものなのかということを。

 

ところで、「世界は客観的に存在している」という、世間では疑いもしない事実を、実はそうではないのではないかとうすうす感じている部分が、誰にでもあると私は思っています。たとえば、この世界で奇妙に立ち回っている自分自身に対する違和感だとか。誰も疑っていることを実際に口に出すことはなくても、どこかで諦めながら奇妙な世界を立ち回っているのではないかと。

 

瞑想は、ここにいかに素直になるかが勝因となってきます。

 


瞑想とは

 

 

To study Buddhism is to study about yourself, to study yourself is to forget about yourself

(ゾンサル・ケンツェ・リンポチェ)

 

 

今月末に瞑想会をするのですが、まず瞑想ってなに、ということを説明しなければならないわけで、すべてはほぼここにかかっていると考えています。

 

私は、本当に幸運にも実際に瞑想に入っていった人に巡り会えたので、この人を通して「瞑想」がどういうものかということが少なからず分かるのですけど、そうすると巷で目にすることの出来る、瞑想やマインドフルネスについての説明が、非常に難解であり謎にみちているのがよく分かるのです。

瞑想とはもっとシンプルであり、かつ非常にラディカルなものです。

 

瞑想として何をするかと言うと、まずは何かに集中することをします。集中する対象は様々ですが、最もオーソドックスなのが呼吸に意識を向けることです。アーナパーナサティといって仏典にもある瞑想法。

 

ところで、実際にこれをやってみればわかりますが、呼吸に集中するなんてことは全然出来ません。吸って、吐いて、吸って、吐いて、、くらいは出来るかもしれないけど、すぐに「そうだ帰りにあれやらなきゃな」とか全然違うことを考えている。

 

瞑想者は、まずこの事実をまざまざと自覚しなければなりません。

 

いいですか、瞑想は「この自分」がするものじゃないです。

しかし、我々はずっと「この自分」できたので、この自分以外で瞑想すると言われてもよくわからない。それでも瞑想を続けていくと、ある事実がわかってきます。

 

「この自分には、瞑想はできない」ということ。どんなに頑張っても呼吸に気づき続けることなど、自分にはできません。このことを自覚するということは、一種の敗北と同義であり、敗北しきるには徹底的に負けを認めなければならない。ヨーガナンダという人は、このことを「エゴを手放すことは、悪い歯を一つ残らず抜くようなものだ」と言いましたが、これは悪い歯なのです。あれば痛み続けるし、抜くとなればそれもまた痛みをともなうのです。

 

では、瞑想体験としては具体的にどういうものかというと、これは意図せずかってにやってくるものです。というか、意図しているうちは、まずやってきません。やってきたその場所では、あらゆることが可能です。呼吸に気づくことも出来るし、すべての人に慈悲を持つことが出来ます。そして、身体にも心にも不快なものは一切存在しない。

 

ここに入ってゆくには、瞑想に入ろうとか、呼吸を見ようとする「我」を手放すしか方法はありません。

 

このことをもう少し整理すると、いくら頑張っても瞑想に入ることの出来ない自分があり、同時に、瞑想に入って呼吸をみることが出来る自分がある、二つの主体がある、ということになります。このことをそもそもふまえていないと、どこまでも「この私」が瞑想に入ろうと頑張って徒労に終わる、という事態を免れることはできません。

 

ケンツェ・リンポチェの言葉通り、ブッダの教えとは、自分自身を学ぶことであり、自分自身を忘れることです。

 

瞑想に入ることの出来ない、忘れるべき、あるいは手放すべき自分と(それは実は虚構の自分なのですが)、そしてそもそもの本質的な自分、この二重構造を我々は生きています。

 

そして、手放すべき我(エゴ)は、いずれいやでも手放さなければならない日がやってきます。エックハルト・トールはこう言います。(「The Power of NOW」より)

死は、わたしたちから「本当の自分」でないものを、すべて剥ぎとってしまう。

 

生きることの秘訣は、「(肉体が)死ぬ前に死ぬこと」であり、しかも「『本当の自分』は死なない」と、

さとることだと言えるのではないでしょうか。