心を観る

瞑想者として、ヨーギとして、自分自身の心を観ることは必須であり基本です。

心を観るといっても、まず、その心とは、常に物事を判断し良い悪いにより分けて分別(distinction 仏教とはこの分別を超えることをいいます)するものである、ということを知る必要があります。
人は何かものを見て、好きか嫌いかと瞬時に判断します。ものに限らず状況に対しても好ましいか好ましくないかなどと常に判断をし、初めて会う人に対しても初対面にも拘わらず好きだ嫌いだと判断しているものです。
この判断の仕方が人によって様々であり、その人の育ってきた環境とか経験、持って生まれた傾向などによって、判断、反応の仕方がそれぞれ違ってきます。
要するに、人はそれぞれに反応という色メガネ越しにこの世を見ている、ということ。
もっというと、それぞれが個々の映画、あるいは物語の中を生きている、といえます。
このことをヨーガのルーツであるヒンズー教では、妄想・マーヤーとよび、人間とは、心が作り出す妄想のなかで生きる、いわば精神病を患った状態だというのです。そして、実際に人は妄想の世界を生きています。これは本当に恐ろしいことです。
たとえとしてこの話がふさわしいかどうかわかりませんが、ヨーガクラスの生徒さんで、昨年、末期ガンが見つかった方がいらっしゃいます。とても上品な方で、摘出手術後も可能な限りクラスに参加していましたが、過酷なガン治療のために体がボロボロになり見る影もなく痩せ細ってゆき、ついには支えがないと歩けなくなったと、クラスにもみえなくなってしまいました。暫くして、その方から手紙を預かりました。内容は、身体的苦痛にくわえ精神的苦痛についても書かれており、具体的にはご主人についての失望、悔しさが綴られていました。クラスでは一切ネガティブなことをおっしゃらない方でしたので、その悲痛な叫びに胸が痛みました。
元気であれば離婚していた、ともありました。しかし、余命いくばくかというこの状況で、この方が救われる唯一の道は、今となっては不可能である離婚ではなく、心の解放、自分自身の心から自由になる以外にありません。手紙にはこうもありました、「(主人の非道さに)はやく気付くべきだった」。しかしこの文面には真実も含まれていて、裏を返せば「気付くべきものはなかった」とも言えるわけです。病気による苦痛と混乱が、不信や不満などネガティブなものを生み出してしまったことは簡単に想像できます。
なんとか心の苦痛から解放されて欲しいと思うものの、ここを説得するのも実は大変至難なことです。
なぜなら、ご主人が非道で、病気で苦しんでいるときに手も差し伸べてもくれなかったということが、この方にとっての事実であるから。これが、妄想、その人自身を苦しめるもの。
心を観ることがなぜ重要なのかというと、妄想に入り込んでしまっていないかどうかを、チェックできるからです。
具体的にいうと、ネガティブな反応(不快、怒り、不満など)が起こった時が、妄想を作りかけているというアラームが鳴っている状態であり、自分の心の反応をよくよくチェックする必要がある、ということ。反応の仕方は、最初にも書いた通り人それぞれ、育ってきた状況や、経験によって影響を受けています。簡単にいうと、心の癖です。この癖を自覚し、手放してゆくことで、私たちは自分自身の心から自由になってゆくことができます。
常に心を観ることがなにより大切です。
心の働きに無自覚でいればいるほど、妄想の世界に入り込み、ついには自分自身と他者をも深く傷つけることにもなります。
アラームは、ネガティブな反応です。ネガティブな反応というアラームが鳴ったとき、無自覚に妄想を作り続けるのではなく、自分の心のくせに気づく好機ととらえること。これが肝要です。

宗教について

宗教という言葉に、日本人の大半はネガティブな感情を持っているようです。
このことはヨーガを仕事にしてきて幾度となく感じてきたことですが、まずヨーガは宗教にあらずして科学であると再三教えられてきましたしヨーガクラスの会場のことごとくからは宗教色を出してくれるなと釘を刺されるしで、ヨーガとはよっぽど宗教と受け取られてはマズイものだということをよくよく学ばされました。なぜマズイかというと、ヨーガは宗教に違いないからですが、そう言ってしまうと間違いなく人々に嫌われるから、ヨーガはその素性を宗教ではないと偽った、というのが真相です。なにより、私自身も宗教に対してネガティブなものを持っていました。
ヨーガにおいてはオウムの事件から大きな被害を受けています。オウムはそもそもヨーガクラスとしてスタートしました。麻原という人は私と同じヨーガ教師でした。サリン事件で日本から宗教(と宗教への信頼)が完全に失われてしまうと、ヨーガにとって生き残る術は、宗教色を完全になくして健康体操と化すことでした。ですから、ヨーガが自らを宗教ではなく科学であると称するのも無理からぬことなのです。
昨今は自殺数がどうとか、引きこもりがどうとか、虐待がどうとかと、今の時代はどうかしているという人がいます。私自身今の時代の人間であり、たしかに何か生きずらさは感じてきましたが、それが時代のせいかといわれると、ではこの時代とはどういう時代なのかということになります。私の瞑想の師である山下良道先生は、この時代の若者の元気のなさは、先の大戦(と、そしてもちろんオウム)により、日本から最も大切なものが失われたからだと言います。もちろん大切なものとは宗教のことですが、そう言われると、この時代をとりまく雰囲気に納得がゆきます。今この時代のなんともいえず殺伐とした日本には、実質的には宗教は存在しないということです。もちろんお寺はそこかしこにあるし、われわれはいずれかの仏教の宗派に属していはいますが、日本の仏教は宗教ではない、というのが日本人の本音です。では、宗教とはなに、と尋ねると、普通は、アブナイもの、アヤシイものとの答えが返ってきて、その中に仏教は入っていないのです。
このように、現在の日本人はほとんどが宗教を嫌っているわけですが、ではそれらの人々が宗教とはなにかという問いに正しく答えることもできないのです。このズレを、われわれは学ばなければならないのですが、そのあたり非常に簡潔にまとめたエックハルト・トールの『ニュー・アース』より以下に抜粋します。
人類にとって最大の成果は芸術作品でも科学でも技術でもなく、自らの機能不全、狂気の認識だ。たぶんこの機能不全を最初に絶対的な明晰さで見抜いたのは、ゴータマ・シッダルタである。…
もちろん自らの狂気を認識することは正気の台頭であり、治癒と変容の始まりである。
少数ではあるが、同時代人にかたりかけた人たちがいた。彼らは罪について、苦しみについて、妄想について語った。
この人たちは人類の目覚めに必要不可欠だったが、世界の側の準備はまだできていなかった。だからたいていは同時代人に、そして後世の人々にも誤解された。彼らの教えはシンプルで力強かったが、歪められ、間違って解釈され、場合によっては弟子たちに誤って記録された。何世紀かが過ぎるあいだ、本来の教えとは何の関係もない、それどころか基本的な誤解を反映する多くのことが付け加えられていった。
人類の精神の機能不全を克服する道、集団的狂気から脱出する方法を示した教えは歪められ、それ自体が狂気の一部となった。
最近ではスリランカで、狂気となった宗教によるテロが起きたのを、私たちはテレビで見て知っています。このようにして、ヨーガはその発祥の地であるインドにおいても科学を自称するという現状にいたりました。しかしエックハルト・トールの言うように、宗教はそもそもその人間の狂気をこそ克服する方法であったはずであり、これ以上に大切なものはないはずです。
さて、妄想について語ったのは、ヨーガのルーツであるヒンズー教の祖師です。ヨーガのもっとも重要なものを、宗教抜きに捉えることなど、到底不可能なのです。
宗教を捉え直す時代に入ってきたと感じられてなりません。

帰依とは

日本で普通に生きているかぎり、お参りでもなければ「礼拝する」機会などまずないと思いますが、私は実は座禅会で毎週お拝をしてますし、接心では毎朝、インドのブッダホールでは入るたびに五体投地をします。ヨーガにも『太陽礼拝』がありますけど、この礼拝とは何なのかについて。

 

簡単にいうと、この限りある「小さな自分」を投げ出して(ひれ伏して)、自分を超える「大きなもの」に対して礼をするということです。

 

『帰依』という言葉がありますが、これを最もシンプルに表現する行為が礼拝といえるでしょう。

 

帰依とは、ある場所を唯一のよりどころ、『避難所』とする、ということです。英語で避難するという意味のrefugeが、take refugeとなって帰依するという意味になります。パーリ語では『サラナン』といい、三つの宝、すなわち『仏』『法』『僧』の三宝に帰依する三帰依文というお経があります。

 

ブッダン・サラナン・ガッチャーミ(ブッダ/仏に帰依します)

ダンマン・サラナン・ガッチャーミ(ダルマ/法に帰依します)

サンガン・サラナン・ガッチャーミ(サンガ/僧に帰依します)

 

南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経の『南無』もまた同じ意味であり、阿弥陀仏を唯一のよりどころとすると念ずるのが、念仏です。

 

帰依先の呼び名はそれぞれ違うものの、今われわれは火事の真っ只中におり(仏教では『火宅』といいます)そこから脱出した先の絶対的に安全な場所、といえましょう。

 

ところでこの帰依、拠り所とする場所に対する信頼がなければまず不可能です。

さらに、信頼したくとも、避難先があることをなずはうすうすとでも知らなければ、信頼のしようもない。

 

ですから、まずは避難所があることを、知らなければなりません。

 

そして、ここがもっとも重要かつ難儀な点ですが、帰依とは、絶望と同義であるということです。

どういうことかというと、われわれは今現に火事の真っ只中にいるのだ、ということです。

このことについて、あらゆるスピリチュアルな伝統が様々に言及していますが、ヨーガではこの世はマーヤー(幻)であるといいます。仏教では一切はデゥッカ(苦)であるといい、キリスト教では人は原罪を背負っている(原文の直訳は、まとを外している、という意味)といいます。

 

 

毎年、合同リトリートが行われるカトリックの施設にゆくのですが、聖堂にある十字架にかかったキリストを見るたび感じる凄みが、年々増してゆくのを感じます。

あれは、私たちの姿です。

今現に十字架にはりつけられているのが、私たちの実態なのです。

 

聖書によると、イエス様は十字架の上で一旦息をひきとり、そして三日後に復活します。

 

 

この復活の場所こそ、サラナン、避難所、帰依の先です。

キリストの死と復活、これが意味するものとは、小さなわたしの死と、大きなわたしの復活です。

 

ここが不思議なところですが、避難所とは、わたしとして体験されます。

この、絶対的に安全な場所を自分の内に発見するためには、今までの自分は一度死ななければならない。

古い自分の背負う罪に、あるいは苦しみに絶望しきってはじめて、古い自分の死と新しい自分の復活を経験します。

 

帰依とは、古い自分を見切って、新たな自分をそこに見ること。

 

最後に、ヨーガにも『バクティ・ヨーガ』という、帰依や信仰によるヨーガがありますが、

『バガヴァッド・ギーター』第12章バクティ・ヨーガより。

 

12-6

'わたし'に熱い信仰をもって

すべての行為を'わたし'のために行い

常に'わたし'を想い 念じ

常に'わたし'を礼拝し 瞑想するものたち

 

12-7

常に心を'わたし'に結びつけている者たちを

プリターの息子よ 

'わたし'は速やかに

生死の海から救い出す


思考に気づく


ヨガでも仏教でも「心」を問題視しています。心とは何かというと、思考とか感情、思考が作る思想とか観念とか。
ヨガやその他の(まともな)宗教はこの「心」こそ問題であるとして、その異常性を色々言っているわけです。

実際に心が問題なんだけど、実は、これが本当にわかれば、もうこの問題は突破できたも同然ではないかと思います。


心が問題で、心がどんなに異常か、どれだけ自分自身を不自由にしているか、こんなことは、いっくら本を読んだり勉強しても、無理、到底理解できるものじゃない。これは実際に自分の心を見るしかないです。入って行くしかない。

これは時間のかかる作業です、心という目に見えもしないものの、強烈な癖とか、傾向を見なきゃいけないんだから、大変です。
しかし、心が問題かもしれないんだと思うなら(そしてそれは事実です)、時間をかけてでもそこに入って行くしかありません。途方もなく時間がかかるかもしれませんが、それしかないです。

具体的には瞑想をしますが、瞑想を始めるとまず自分の雑念の多さに気づきます。これはヨガクラスでも同じです。ヨガを始めたばかりの人たちの多くが、雑念がすごいんですということをよく言います。つまり、何かに集中しなきゃいけない状況で、逆にひっきりなしにろくでもないことをああだこうだ考えていることがだんだんわかってくる。
エックハルト・トールは、この自分の思考に気づくことで、思考に巻き込まれず、思考が起こっては消えてゆくのに任せることができるといいます。思考が自分ではなく、気づいている主体があり、(Being)それが本当の自己である、と。
ところでこれは、私の経験ではそんなに簡単にはゆきません。思考が起こって、たとえば憂鬱な気分になったとして、今憂鬱な気分になっているなと気づいたところで、そのまま憂鬱でいないでいることは、ほとんど不可能です。

しかし、ある地点をすぎると、思考に「気づく」ことができるようになります。
私の場合、「思考とは殆ど有害であり、無意識にその思考に突き動かされている」ということがわかった時からです。この時、「それなら、思考に全て気づいてやる」と心に決めました。それ以前は、思考が殆ど全て有害であるとは思っていませんでした。

おそらく、この時に思考を自分としておくのをやめたのだと思います。それまで自分の声として従っていたところの思考を、徹底的に見ることで、思考を他者と転じて、自己の転換が起こったのではないかと。それで、それまでどんなに思考に気づいたところでそこから離れることはなかったのに、転換が起こった後なので、簡単に離れることができるようになったのではないか。

ここからさらに突っ込んで、では、自分とは なに?という問いをたてることができます。
一つの結論は、思考が自分ではなく、思考ではないもう一つの主体があるということ。この先はまたいずれ。



死について 他者の死とは

大概は親とは先に逝くものです。うちは両親は健在ですが、想像するに、亡くして初めて予想以上の悲嘆を味わうのだと思います。それで、あんまりきつくて、鬱になってしまうということも聞きます。

他者の死がなぜ悲しいのでしょうか。親はとはつまり、一番近い他者です。

 

 

うちは世間的にはまあ勝ち組と言える生活を得ることに成功しました。父は医者で、たぶん収入は普通より多くて、私もこれでもかというくらい脛をかじらせてもらいました。

しかし、それが本当に勝ち組みと言えるのか?

 

言えないですよね、彼らが本当の意味で満たされていないということは、長年一緒に暮らしてきて分からないはずがありません。

しかしながら、世間の指し示す勝ち組みなどと言われる価値に、あまりに盲目的な信仰を持っているため、人々は「真の意味で満たされている」あるいは「満たされていない」ということもわからないくらい麻痺してしまっています。世間ではこれが価値なんだから、これでいいのだろう、というぐあいに。

 

しかし、真の意味で満たされていないのは依然として事実としてあり、それが、彼らの表情に現れているわけ。

なんか、暗いんです。

 

親の暗い表情を見続けてきた子供も、彼らが何か問題を抱えているということはどこかで知りながら、世間的には価値のある生活を送っているのだからと、深くは考えません。

 

で、そのまま歳をとって、老いた両親を先に見送ることになるのですが、こんなことでいいわけがない。

 

子供は両親の暗い表情に胸を痛めたまま彼らを亡くし、親は暗い表情のままその生を終えるなんて、どこにも救いがない。

 

これは、うちに限ったことではなくて、人々は何かを深く諦めていて、その濃い影を顔に落として生きています。電車に乗って周りを見回して下さい、この事実を見ることができるはずです。

 

 

 

子供の頃、よく家族で休みになると旅行に行ったものです。

楽しかったという記憶より、何かを探してしたという記憶、あるいはその欠落による痛みのようなものが記憶に残っています。

 

ところで、最近わたしには、あの時探していたものがなんだったのか、ようやくわかってきました。

あ、これを探していたのか、と。

おそらく、人とは、その人生を通して、これを探しているのだろう、というそのことがわかってきた。

人々がどこまで自覚的かは別として。
しかし、ほとんどの人はどこかの地点でそれを諦めます。何を探していたのかすらわからないまま。

その絶望が、人の顔に濃い影落とすのです。

 

私は今、両親にこのことを伝えたいと思っています。探していたものはここにあるよと。

これを伝えることができれば、回り道をしてきたことも全てが報われます。

 

どんな親たちも、同じことです。

誰もが等しく死ぬわけですから、結局は、誰も真の意味で勝者にはなりえないのです。

 

 

全ての、親を持つ子供と、子を持つ親とにこのことを伝えられれば、

その死による悲嘆は、もうこの世からなくなります。