怒りの変容

怒りと言えば、ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハン師です。「怒り」という著書もあるほどですが、ハン師の壮絶な人生は、常に怒りや悲しみと向き合うものでした。

ハン師は、ベトナム戦争を契機として、内面と社会と両方にかかわるEngaged Buddhism「行動する仏教」の実践をはじめます。戦争に伴うあらゆる苦しみを間近に見ることで、自身の怒りに向き合い続けた人でした。

https://www.tnhjapan.org/thich-nhat-hanh

 


 

ハン師は「腹が立ったとき、どうしたらいいですか?」という質問に対してこう答えています。

 

「腹が立ったときは何も言ってはいけません。何もしないほうがいいです。自分に戻って、ゆっくり息を吸って、息を吐きます。それを何回かして、何か行動を起こす前に、怒りの面倒をみてあげます。これは平和の行動になります。

すぐに反応したりしないんです。自分の怒りの面倒のみかたを知っていれば、ゆっくり呼吸しながら「今のはカチンときた。でも別に反応して行動する必要はない」とわかりますし、「この人は今、幸福でないから、あんなことをしたのだ」と思えますから、その人に対して思いやりを持ち微笑みます。これは大きな勝利です。」

 

 

理解することで、怒りが変容するのだといいます。

 

 

その具体的な体験を話しておられますので、以下に記します。

 

 

 

ある村を焼き尽くした米兵の記事を読んだハン師は、強い怒りを感じます。

 

「そこで私は実践者として自分自身に立ち帰り、じっと「怒り」を抱いていました。心を静め、何日もかかってようやく加害者への慈悲を感じるようになりました。彼らは「村を守る」といいながら村の人を殺してしまった。それは彼らが「間違った認識の犠牲者」だからです。正しい理解・正しい見方・正しい考えを持てなかった。だから彼らに対して怒るより、むしろ助け出すべきなのだと。」

 

 


 今日お話したいのが、この、変容が起こる場所について。ハン師の言う「自分自身に立ち帰る」という自分自身についてです。

普段の私たちが、理屈であれこれ考えて怒りをおさめることなど到底出来ないということは、おわかりですね。

 

では、どこで怒りに向き合えばいいのかというと、「自分自身」、すなわち本来の自己で怒りに向き合うことで、初めて、怒りは変容することができます。

このあたりについてはまた詳しくお話しできればと思いますが、まずお伝えしたいのが、「この私」には怒りを正しく変容に導くことはできないのだということです。ほとんどの場合、怒りのままに行動する、怒りを正当化する、怒りに蓋をして無視することしかしていません。怒りもエネルギーですから、ネガティブなまま放っておくと連鎖を起したり、あるいは巨大なエネルギーにまで膨れ上がることもあります。それ以前に、怒っている本人が一番苦しい思いをしているはずです。その苦しさが連鎖を起すのですね、よく見かける光景です。

 

 

もちろん、変容が可能な場所とは瞑想で入ってゆく場所以外にありませんが、これについてはまたいずれお話いたします。

**NHK こころの時代 禅僧 ティク・ナット・ハン 第一回 「怒りの炎を抱きしめる」を参考にしました。オンデマンドなどで視聴可能ですので、是非ご覧下さい。**

前世について2

 

前世があるかないかというのは、この際問題ではなくて、言い方を変えるだけかも知れませんが「生き続けるか、生き続けないか」という、ここに対する直観が重要ではないかと思います。


Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever. 

明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。


これはマハトマ・ガンディーの言葉ですが、後半の「永遠に生きるかのように学べ」という文句に強い共感を覚えます。やはり、この手触りなんですよ。

善く生きる、あるいは、情熱を持って生きる、この世界を愛する、その所以とは。

その核にあるものが「生き続ける」ということに他ならないのではないかと思うわけです。

 

哲学者の池田晶子さんはこんな言い方をします。

 

どうせ死んでしまうのに

この半端な腹のくくり方が、いかに魂を堕落させることか。

(『残酷人生論』より)

 

『死後』もしくは『来世』の観念の有無で、人の幸福感は劇的に転換するのである。
(『あたりまえなことばかり』より)

 

生き続ける精神がはっきりと見えていた池田さんは、いろんなところで前世やら輪廻を思わせることを書いていますが、さすがにこういうことは相手を見てから話すのだそうです(笑)

 

生き続けるかどうか、実際にはわかりませんが、「魂の完成形としての「神」もしくは「善」が明らかに見えている限り、人生が今回限りであるにせよ、それは徒労で終わったことにはならないからである」と池田さんも言うように、一人ひとりの「神」もしくは「善」とのご縁、あるいは準備の出来があまりにレパートリーに富んでいるのは見ての通りです。人によっては「これ以前」に相当の準備をしてきたのだろうとしか思えない場合(まさに池田さんなど)もあります。そうであれば、どうせ死んでしまうのに、などという生き方は出来るわけがないはずです。

 

 

だって、生き続けるかもしれないわけですから、そして引き継がれてゆくものが確実にあるわけですから。

プラーナについて

プラーナとは、具体的に感じることの出来る、具体的なものであり、これを感じることが瞑想の入り口になるという重要なものです。ですから、ヨーガ・スートラの中でも実際にこの順番になっているわけです。

        1.ヤマ(禁戒)

        2.ニヤマ(勧戒)

        3.アーサナ(体位法)

        4.プラーナヤーマ(調気法) 

        5.プラティアハラ(制感)

        6.ダーラナ(凝念)

        7.ディヤーナ( 禅那)

        8.サマーディ(三昧)


このように、プラーナヤーマ以降の4つの段階は瞑想の段階です。

 

ところで、私たちヨーガ実践者は、実はこのプラーナには親しいはずなのですが、体系付けた実践をしなければ育てることが出来ませんし、プラーナを感じていても自覚すらせずに終わってしまいかねません。

 

私自身のことを話すと、最初にプラーナを感じる実践をしたのは瞑想メソッドにおいてです。そこではプラーナとは呼びませんでしたが、たとえば掌にピリピリと感じることの出来る「微細な感覚」などと呼び、ヨーガで勉強してきたプラーナであることは明らかでした。
ところで、現在の日本で伝えられているヨーガでは、プラーナを具体的に感じる実践はほとんど行われません。「プラーナとはこういうものである」と言葉で説明はうけ、我々指導員も一応言葉で説明することはできますが、具体的にプラーナを知っているかというと、そういう指導は一切受けませんので、一握りの勘の良い人たちが、あるいは自覚もなくプラーナを捉えている、というのが実状ではないかと思います。

 

しかし、プラーナを実際には知らずに言葉で説明することだけできても、何の意味もないではないですか。

 

プラーナの次元は、思考の働きがごく弱まっていった時に現れてきますので、その性質を利用して瞑想に入ってゆきます。

慣れてくれば、ヨーガや坐禅の間に限らず四六時中このプラーナを感じながら生活できるようになってきます。特にフッと落ち着いた時や、読書したり集中する場面で、常にプラーナを感じることが出来るようになります。これは非常に有効な、具体的な実践です。
なぜなら、プラーナをいつでも感じることで、強い思考パターンから逃れることが可能になるからです。この強い思考パターンこそ、我々を苦しめるものです。

そして、このプラーナを感じる実践は、どこでもできます。この実践は瞑想の一つですが、坐禅のように脚を組んで坐れる静かな場所でなくても、例えば電車の中、布団の中、公演のベンチや歩いている時でも、リラックスできる場所であればどこでも実践可能です。

是非、これを実践してください。とくに寝付けない布団の中など、この練習をすることで不眠などはほとんど解消してしまいます。私なんかはごくたまに寝付けないこともなくはないですが、2分もあればほぼ寝てしまいます(笑)。とくにヨーガ実践者はすでにアドバンテージがあるわけですから、これを活用しない手はないはずです。

私とは、という問い

 ヨーガクラスで、何をお伝えしたいのか改めて考えてみると、いつも持て余している悩み多きこの「私」の他に、もう一つ〈私〉がある、ということです。

 

 私とは、この「私」と、もう一つの〈私〉とが、在ります。

 

 この後者の〈私〉が在るとわかると、ところどころ欠けたピースが一気にはまってパズルが完成するような、もっというと、ほぼ暗闇の中を手探りで目の前にあるものをなんとか把握していたところを、パッと明かりが点いて全てがくっきりと見える、というようなことが起こります。ですから「無明(むみょう)」というのは本当に言葉通りだなと。無明とは仏教の基本的な教えですが、「私」しかないという立場から見える世界、と言えます。

 

 と、いうくらい、「私」しかないところから見える世界は、違和感と混乱と不安と苦しさに満ち満ちています。心底思うのですが、違和感をごまかさずにきて本当によかった、苦しさをごまかしきれるだけの器用さを持たずに本当に幸運だったなと。

エックハルト・トールは「ニュー・アース」の中でこう言っています。

 

「苦しみは深みのある人間をつくる。苦しみの原因は形への自分の同一化だが、逆にその苦しみが形との同一化を突き崩す」

 

 苦しさはそれを超えるための重要な入り口です。ここを誤摩化してしまうといつまでも誤摩化し続けることになりますよ、それこそ、いつまでも!

 

 

 さて、〈私〉から世界を見ると何が起こるかと言うと、「私」のいた世界が思い込みだったということです。そうすると、大抵のことが問題ではなくなってゆきます。私が皆さんにお伝えしたいのは、このことです。

これは、世界がかわるできごとです。世界が変わるとは、自分が変わることにほかならない、「私」から〈私〉へのシフト。

そして、この転換は、そんなに難しいものではありません。

とてつもなく難しい面もあるのですが、あるレベルでは、比較的容易にシフト可能です。

 

 

 やはりこのふたつの[私]を、象徴的に、右脳と左脳という物理的に分かれているものとして説明したのが、ジル・ボルト・テイラー博士ですが、ご自分の体験を話された動画(パワフルな洞察の発作)がありますのでどうぞご覧になってみて下さい。左脳に梗塞を起こし、〈頭の中のおしゃべり〉が完全に途絶えた時、そこで現れた世界について語っています。

 

 

 ところで、池田晶子さんは「14歳からの哲学」の中でこうも言っています。

 

「もし脳が自分であるとして、この脳が自分であると、どうしてわかるのだろうか。その脳が自分であるとわかるためには、先に、自分が自分であるとわかっていなければならないはずじゃないだろうか」

 

 さて、自分であるとは、いったいどういうことでしょうか。

 

 この問いが、始まりですね。

前世について

ヨーガなど生業にしていると「私の前世はこうだった」とか、そういうことを言う人に出会いやすいように思いますが、私自身はこの言い方はあまり好きではなくて、というのは、これだとオカルトになってしまうから。オカルトって何も面白くないと私には思えるのですが。

 

では、どう語りたいかというと、まずは、日本を一歩出れば輪廻が当たり前とされている、もっというと事実とされている文化がたくさん存在するということ。そして、これは河合隼雄さんが言っていたのですが、近代という時代が「死」についてできるだけ考えないようにしてきた、「特殊な時代」だということ。近代において死はタブー視されているということ。

この二点を考慮するだけでも、もう少し前世という可能性を探ってみてもいいと思えるのではないか。

 

そして探ってみてもいいという一番の理由は、「私」というものが、今、現にこうである不思議。よりによって何故「私」はこうなのか、なんでこんなに社会的じゃないのか、という、この「よりによって感」とその由来みたいなものを思うと、これ「以前」というものが自然と示唆されるように感じる、この手触りです。

「以前」に生きていたことがあるかもしれない、では以前はどんな風に生きていたのかという内容自体はどうでもよくって、現に今こうである、このことの不思議そのものが、私にとっては問題なわけです。

 

で、私はヨーガとか座禅とかやってますが、こういうものには一応目標があります。この目標はいろんな名前で呼ばれていますが、簡単にいうと「善くある」ということかな。だって人の"さが"とは「善くあれない」というものだから。それはTVニュースを見ればすぐ分かります。あるいは家族や友人にどうしても毒づいてしまう自分を見れば分かります。あるいは、どうしても自分自身を具合悪くしてしまう自分を見れば一目瞭然です。

 

善くあるために、世界が動いているように見えますか?

 

この人間のさがを「超越」して乗り越えた場所を、ある人たちが発見して、それを「神」とか、「仏性」などと呼びました。

これだけが善くあるための方法であると伝えられてきたものが、宗教というものです。残念ですがこれは大きな誤解をうけてきたし、悪意によって利用されてもきました。それだけ誤解されやすいことを扱っているということです。

 

ある面から見れば、ヨーガなり仏教なり、すでにやっているんであれば、「善くある」ためのスタートはきっているということです。

じゃあ、やっていない人はどうなるの、やるはずもなさそうだし、善くあるなどという発想すらなさそうな人も、なかにはいますよね。

この人はどこまでもこうだろうなという人、そういう人に対して、それでもまあ大丈夫だろうと感じます。実際のところ、もうどうにもならないのは明々白々ではあるのだけど、それでも「いつか」は大丈夫だろうと。つまり、別の「とき」に!

 

だって、人がこうしてあることの目的が、「善くある」ことだと感じるからです。ですから、人がこうしてある以上、どのような形であれ目的にむかってゆくのは当然であろうと感じます。だったら今は悪くてもいいや!ということではないですよ、その逆のことを言っています。

「善くある」ためにあるんだとしたら、善くならなければならないわけで、悪くあり続けることは自然の流れに反しているし、それ故に苦しい在り方であるはずです。

 

 

「前世」という言葉に対して、私はこんな風に感じています。