思考に気づく


ヨガでも仏教でも「心」を問題視しています。心とは何かというと、思考とか感情、思考が作る思想とか観念とか。
ヨガやその他の(まともな)宗教はこの「心」こそ問題であるとして、その異常性を色々言っているわけです。

実際に心が問題なんだけど、実は、これが本当にわかれば、もうこの問題は突破できたも同然ではないかと思います。


心が問題で、心がどんなに異常か、どれだけ自分自身を不自由にしているか、こんなことは、いっくら本を読んだり勉強しても、無理、到底理解できるものじゃない。これは実際に自分の心を見るしかないです。入って行くしかない。

これは時間のかかる作業です、心という目に見えもしないものの、強烈な癖とか、傾向を見なきゃいけないんだから、大変です。
しかし、心が問題かもしれないんだと思うなら(そしてそれは事実です)、時間をかけてでもそこに入って行くしかありません。途方もなく時間がかかるかもしれませんが、それしかないです。

具体的には瞑想をしますが、瞑想を始めるとまず自分の雑念の多さに気づきます。これはヨガクラスでも同じです。ヨガを始めたばかりの人たちの多くが、雑念がすごいんですということをよく言います。つまり、何かに集中しなきゃいけない状況で、逆にひっきりなしにろくでもないことをああだこうだ考えていることがだんだんわかってくる。
エックハルト・トールは、この自分の思考に気づくことで、思考に巻き込まれず、思考が起こっては消えてゆくのに任せることができるといいます。思考が自分ではなく、気づいている主体があり、(Being)それが本当の自己である、と。
ところでこれは、私の経験ではそんなに簡単にはゆきません。思考が起こって、たとえば憂鬱な気分になったとして、今憂鬱な気分になっているなと気づいたところで、そのまま憂鬱でいないでいることは、ほとんど不可能です。

しかし、ある地点をすぎると、思考に「気づく」ことができるようになります。
私の場合、「思考とは殆ど有害であり、無意識にその思考に突き動かされている」ということがわかった時からです。この時、「それなら、思考に全て気づいてやる」と心に決めました。それ以前は、思考が殆ど全て有害であるとは思っていませんでした。

おそらく、この時に思考を自分としておくのをやめたのだと思います。それまで自分の声として従っていたところの思考を、徹底的に見ることで、思考を他者と転じて、自己の転換が起こったのではないかと。それで、それまでどんなに思考に気づいたところでそこから離れることはなかったのに、転換が起こった後なので、簡単に離れることができるようになったのではないか。

ここからさらに突っ込んで、では、自分とは なに?という問いをたてることができます。
一つの結論は、思考が自分ではなく、思考ではないもう一つの主体があるということ。この先はまたいずれ。



死について 他者の死とは

大概は親とは先に逝くものです。うちは両親は健在ですが、想像するに、亡くして初めて予想以上の悲嘆を味わうのだと思います。それで、あんまりきつくて、鬱になってしまうということも聞きます。

他者の死がなぜ悲しいのでしょうか。親はとはつまり、一番近い他者です。

 

 

うちは世間的にはまあ勝ち組と言える生活を得ることに成功しました。父は医者で、たぶん収入は普通より多くて、私もこれでもかというくらい脛をかじらせてもらいました。

しかし、それが本当に勝ち組みと言えるのか?

 

言えないですよね、彼らが本当の意味で満たされていないということは、長年一緒に暮らしてきて分からないはずがありません。

しかしながら、世間の指し示す勝ち組みなどと言われる価値に、あまりに盲目的な信仰を持っているため、人々は「真の意味で満たされている」あるいは「満たされていない」ということもわからないくらい麻痺してしまっています。世間ではこれが価値なんだから、これでいいのだろう、というぐあいに。

 

しかし、真の意味で満たされていないのは依然として事実としてあり、それが、彼らの表情に現れているわけ。

なんか、暗いんです。

 

親の暗い表情を見続けてきた子供も、彼らが何か問題を抱えているということはどこかで知りながら、世間的には価値のある生活を送っているのだからと、深くは考えません。

 

で、そのまま歳をとって、老いた両親を先に見送ることになるのですが、こんなことでいいわけがない。

 

子供は両親の暗い表情に胸を痛めたまま彼らを亡くし、親は暗い表情のままその生を終えるなんて、どこにも救いがない。

 

これは、うちに限ったことではなくて、人々は何かを深く諦めていて、その濃い影を顔に落として生きています。電車に乗って周りを見回して下さい、この事実を見ることができるはずです。

 

 

 

子供の頃、よく家族で休みになると旅行に行ったものです。

楽しかったという記憶より、何かを探してしたという記憶、あるいはその欠落による痛みのようなものが記憶に残っています。

 

ところで、最近わたしには、あの時探していたものがなんだったのか、ようやくわかってきました。

あ、これを探していたのか、と。

おそらく、人とは、その人生を通して、これを探しているのだろう、というそのことがわかってきた。

人々がどこまで自覚的かは別として。
しかし、ほとんどの人はどこかの地点でそれを諦めます。何を探していたのかすらわからないまま。

その絶望が、人の顔に濃い影落とすのです。

 

私は今、両親にこのことを伝えたいと思っています。探していたものはここにあるよと。

これを伝えることができれば、回り道をしてきたことも全てが報われます。

 

どんな親たちも、同じことです。

誰もが等しく死ぬわけですから、結局は、誰も真の意味で勝者にはなりえないのです。

 

 

全ての、親を持つ子供と、子を持つ親とにこのことを伝えられれば、

その死による悲嘆は、もうこの世からなくなります。


思考が止まる

ヨーガとは心の作用を止滅することである

 

ヨーガスートラ 第1章2節。

 

心の作用を止めるとはどういうことか。

そもそも心とは何をさすのか。

 心というと、なにか暖かい、胸のあたりにあるものを日本人は想像するようですが、英語ではmindと言います。英語圏の人たちがmindと言ってどこを指すかというと、頭です。

ヨーガスートラの心とは、この頭のほうを指していて、広い意味で「思考」を意味します。

 

ヨーガスートラはその冒頭でいきなり「心(思考)」こそが問題であることを明示しているわけです。

問題は心であるとした上で、その働きを止めることが解法であると示しています。

 

どれほどの人が「心」が問題だと考えるか、しかし思考こそが「無明」や「マーヤー」あるいは「地獄」「悪」「罪」などと呼ばれるものの「もと」なのだという話はとりあえず棚上げして、「思考が止まる」ということについて書きます。

 

さて、心が止まったことがあるという自覚のある人はいないと思いますが、実は、思考の止まった状態を多くの人が経験しているものです。

 

どんな時に思考が止まっているのかというと、たとえば、毎年春になると一斉に咲き誇る桜の花、あれを見て、私たちはなにか感じるわけです。言葉にならない、なにかを、その一瞬、言葉にはならずとも桜の花を深く理解するというか、要するに感動するわけですね。感動は、正確には言葉になりえませんので、たとえば芸術家たちは、なんとかそれを捉えようと表現するわけです。

 

この一瞬、人は思考が止まって、見ているものをただ理解します。あるいは、世界の中に深く安らぐというか、とにかく、特別な一瞬ですね。人はこのことを「美しい」とか、「幸福」だとか形容するのだと思います。

 

思考は止まることがあるのですが、それを自覚するすることはあまりないようです。しかし、これはやはり自覚が必要で、思考ではない認識主体をはっきり自覚することが大切です。

それには、瞑想をたんたんと続けるしか、ない。

 

 

 

 

 


死について 1

死について話します。

 

私はヨーガを生業にしながら仏教瞑想を実践していますが、重心はもっぱら仏教の側に傾いています。

正確にいうと、実践を通して開けてくるリアリティーを深く学ぶのに、仏教や、あるいは宗教者の立場をとらず活動するエックハルト・トールや、哲学者の池田晶子さんなどのテキストに深く拠っています。(ところでこの縁もゆかりもないふたりは、驚くほど同じようなことを言いますが、それはまたいずれご紹介できれば)

 

一言で言うと、ヨーガの教科書よりもこっちの方ばかり読んでます。こっちの方が圧倒的に面白いから。

 

しかし、これらを学ぶことはヨーガを学ぶことに等しいと思っています。あるいはもっと効率がいい。実践を通して見えてくるリアリティーをもってすれば、ヨーガの聖典をリアルに読むことができてしまうからです。聖典を「勉強する」必要などないのですよ、聖典とは「謎」そのものですから、 聖典が読みたければ実際に「謎」に触れてしまうのが一番です。というか、それ以外に聖典を読む方法はないです。

 

今日は死について話しますが、この主題はヨーガにおいてもメインの主題です。

仏教や世界中の宗教がこれを主題にしているといっていいと思います。

 

人は生きて死ぬ、この大きな謎。

 

仏教では、死はないといいます。般若心経には「無老死」、老いも死も無いとあります。

そして、ヨーガの聖典の一つ、バガヴァット・ギーターでは、「滅ぶのはわたしたちの肉体であって、魂は永遠に残る」ということが繰り返し説かれます。

キリスト教では、十字架に架けられ息を引き取ったキリストが、墓に埋葬されたその三日後に復活する、というのがメインテーマです。

 

一様に、死なずに、なにがしか生き続けるものを示唆している。

 

 

ところで、私自身の、ヨーガ、あるいは瞑想を始めた理由は、死を乗り越えたい、などというものではまったくなくて、もっと瑣末な、同時に切実な、生きにくさそのものが理由です。しかし、瞑想を続けるうちに、実際に、死はないのだ、ということが徐々にわかってきています。

そして、この点がわかることによって、生きにくさも同時になくなってきている。

 

人を生きづらくさせるものと、死、あるいは死に対する恐れは、同じものであるということがだんだん見えてきます。

 

池田晶子さんは2007年に 亡くなりましたが、この人は死に対する恐れを持たなかった人です。やはり、「死はない」といたるところで書いています。そして、「わたしには確信がある」とも。

 

私は残念ながらまだ確信はできませんが、(この点をごまかしては決してならない)それでも徐々に死はないということに触れつつある。

 

そして、仏教とは、この「確信」をいいます。

 

死後の世界を信じる、などという甘っちょろいものでは、仏教は決してないです。


聖音0Mについて

 

ヨーガのセッションでは開始時と終了時にマントラを唱えますが、その最も短くシンプルなものが0Mです。

「オウム」と呼びますが、実際には「オーウーン」と発音します。

 

マントラとは、真言のことです。

マントラは、何度も繰り返し唱えることによって思考や感情を鎮めることを狙います。その時にネガティブな言葉では鎮まるものも静まらないので、よい言葉、神聖な言葉を唱えます。

 

その、最も短い、万物の始まりから終わりまでを意味するマントラが、聖音OMである、ということです。

 

しかしこのマントラ、日本においては大きな差別を受けてきました。いうまでもなく95年に起きた地下鉄の事件による影響です。

マントラのみならず、市民会館などは軒並みヨーガサークルの施設利用を断り、ヨーガ教室は生徒数が激減したといいます。ヨーガそのものが世間から白い目で見られる時代が続きました。

 

ヨーガはこの時に、マントラや瞑想など宗教を匂わせるものを全て諦めて、体操に専念するという形をとり、なんとか生き残ってきた事情があります。数年前に大きなムーブメントとして起きてきたマインドフルネス瞑想が、巷のヨーガスタジオでも開催されるようになってきた現在、時代が変わりつつあるのは確かですが、まだ、宗教に対する偏見が脈々と生き続けているのも事実です。

 

そして先日、23年の時間を経て、ついに刑が執行されましたが、私も少なからずショックを受けました。

実は、一部の理解のあるクラスでは以前からオウムを唱えてましたが、全てのクラスでもつい先頃からマントラを唱えるようにしていました。これは皆さんだけでなく、私自身の自己規制をも払拭するのが狙いだったのですが、この日はさすがに唱えることはできませんでした。

 

 

ところで、勿論のことですが、日本を一歩出れば、OMはヨーガにおいて最も大切なマントラにすぎません。それはカルトを思い起こさせるものでも怪しいものでも不快に感じるべきものでもありません。

 

そして、これはマントラに限ったことではなく、この国で生きる我々は「宗教そのもの」に対して不信感を持っています。

 

 

このあたりをどう整理してゆくか、引き続き考えて行きます。