深淵なる常識

前回、苦しみ抜くことがそこからの唯一の脱出方法ということを書きましたが、これはかなりの誤解を招く言い方だなと反省し、もう少し詳しく書きます。

 

要するに、その苦しみ抜く主体は誰なのかということが問題です。打ちのめされて苦しむのは誰か、それは私たちが自分自身をそれであると思い込んでいるところの「私」でしかない、ということです。誰にでもキツいことや悩み、苦しいことがありますが、そこで傷ついてめった打ちにされるのは、「エゴ」にすぎないということ。

(ここでいう「エゴ」とはヨーガや仏教の文脈でいう自我のことです。エックハルト・トールなどもこの文脈でエゴという言葉を使っています)

ヨーガでは、『私』というものを二重構造で捉えています。
「エゴ」として現れる「私」と、そうではない〈私〉

エゴを自分だと思っているぶんにはいつまでも苦しい思いをするし、そこから逃れる方法は文字通り逃げるしかないのですが、エゴが自分の本質ではないことを悟れば、『私』という世界が様変わりします。

ヨーガの狙いとは、要するにここのことです。

これは非常にシンプルなことなのです。

神秘的なことでも難解なことでもなく、「真理(本当のこと)とは、深淵な常識なのだ」そうです。これはソギャル・リンポチェの「チベットの生と死の書」の中にある一節ですが、私はこの言い方が大好きです。

 

世の中には、二種類の声があって、「エゴ」の発する言葉と、そうではない言葉があります。

私は昔からこの「エゴ」の発する言葉に強い違和感を感じてきました。勿論、自分自身に対してもです。ですから、自分(エゴ)の言葉に苦しんだし、それがエゴであるとわかるまでは本当に苦しかった。エゴは、どこまでもその人自身を苦しめるものです。

 

自分の発している言葉が自分を苦しめていないか、見なおしてみて下さい。もしそれが自分自身を苦しめていることがわかったらその「苦しみ」がそこから脱する入り口です。なぜって、それが自分を苦しめている、手放すべきものだということを悟るからです。