外にある価値と内にある価値

ついうっかりヨガ講師の求人サイトを覗いてしまって、その応募資格に唖然としてしまいました。

「コミュニケーション能力の高い方」「40歳くらいまで」「人を癒したい、楽しませたい方」云々。

もうヨガとはなんの関係もない。こういう求人をしてもいいですが、どうかヨガを謳うのはやめていただきたいです。

 

そうだった、世間とはこうだったというのを思い出しました。

世間にはこういう実体のない価値があって、宗教のように信じ込まれている、私も以前はこれを信じろという世界で生きていて、非常に苦しい思いをしていたものです、なんせ世間向きではないもので。この求人は苦しい。

価値とはなんでしょうか、それを価値と思えば価値になるわけで、実態はありません。ただそう信じ込まれているだけです。

 

そう思い込まれている、良しとされていること、たとえば若さ、頭の良さ、美しさ、裕福さであるとか、これらは単に個性であり、相対的に付与される形容でしかないです。ですから、こういうものを価値だと思っているうちは、どこまでいっても他との比較において価値を得ることしか出来ません。絶対ではない、何の実態もないものです。

 

では価値とは何か。

 

それはすでにここにあって、それを深く実感することがヨガの狙いです。深く納得する、というのだろうか、外にあるはずのものを、何故だか理解することができる、この不思議。奇跡、と、いってもいいかもしれません。

これを価値と呼んでいいものか分かりませんけれども。

 

 

内山興正『坐禅の意味と実際』より引用

 

「…金は大体、人間のアタマ同士の約束事の上にのみ成り立っている価値でしかないわけですが、世間の人たちは他者との取り引きに役立つ金こそを現ナマの物であると思い、かえって自己の生命の実物を見失ってしまっています。」