自分を大事にする 他人を大事にする

「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか。違う、という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということ。」


スティーブ・ジョブズがスタンフォード大卒業式で行ったスピーチからの抜粋ですが、やっぱりいよいよ死ぬとなって、ようやく悔いることができるということで、死を仮定して日々を見直せという話ですね。

で、私の場合、死ぬ間際に何を後悔したくないかを考えてみました。

 

大事な人たちを、大事に出来なかったら、それを一番に悔やむだろうと思いました。

 

現に大事な人は目の前にいるのに、というか、目の前にいる殆どの人をとても大事に感じていながら、大事にできないでいる、このことをとても辛いと感じます。

 

なぜ大事にできないんでしょうね、それは色々なことが間違っているからで、たとえば「私」とはなんなのか、目の前にいるこの人(他人)はだれなのか、そういうことを捉え間違っているということ。

 

〈私〉とは、これは池田晶子さんの言い方ですが、

名前でなければ、身分でもない。体でなければ、心でもない。」

このなんでもないところの私を〈私〉と呼んで、名前であり体であるところの私を「私」と呼ぶことにします。

 

なんでもないところの〈私〉ですから、そこには優劣もないし、そこから見る他者とは私の風景の一部であり、要するに他者とは〈私〉であるということになります。

ところで、他者もまた同じ構造を生きていて、なんでもないところの〈他者〉としてもあるわけです。

これを、慈しむことなくいられるわけが、ないではないですか。

 

池田さん流に言うと、

 

「自分のためにする

 他人のためにする

 同じことではないか」

 

と、なりますが、ここを論理的に説明することができるのかよくわかりませんけども、とにかく、そうなっています。

 

にも拘らず、他人を大事にできないのは、私なり他人なりを比較区別できるものとして間違って捉えているからで、目の前にいる人の個性を云々することと、その人自身を慈しむのとを混同しているということだと思います。

 

とは言っても、誰でも、なんでもないところの〈私〉と、名前があり身分があり体と心のある「私」とを同時に生きているのですから、これはどうしても優劣の中で悶着を繰り返さざるをえないです。

 

しかし、〈私〉とは何ものでもなく、〈他者〉もまた何ものでもないということを見抜くことができれば、状況は一変してゆきます。

 

で、このあたりを間違え続けて、死ぬ間際に後悔したくはないものだと思った訳です。

 

つねに〈私〉として生き続けて、大事な人たちを大事にしたいものです、そしてそれのみが、自分自身を大事にすることにもなります。