前世について

ヨーガなど生業にしていると「私の前世はこうだった」とか、そういうことを言う人に出会いやすいように思いますが、私自身はこの言い方はあまり好きではなくて、というのは、これだとオカルトになってしまうから。オカルトって何も面白くないと私には思えるのですが。

 

では、どう語りたいかというと、まずは、日本を一歩出れば輪廻が当たり前とされている、もっというと事実とされている文化がたくさん存在するということ。そして、これは河合隼雄さんが言っていたのですが、近代という時代が「死」についてできるだけ考えないようにしてきた、「特殊な時代」だということ。近代において死はタブー視されているということ。

この二点を考慮するだけでも、もう少し前世という可能性を探ってみてもいいと思えるのではないか。

 

そして探ってみてもいいという一番の理由は、「私」というものが、今、現にこうである不思議。よりによって何故「私」はこうなのか、なんでこんなに社会的じゃないのか、という、この「よりによって感」とその由来みたいなものを思うと、これ「以前」というものが自然と示唆されるように感じる、この手触りです。

「以前」に生きていたことがあるかもしれない、では以前はどんな風に生きていたのかという内容自体はどうでもよくって、現に今こうである、このことの不思議そのものが、私にとっては問題なわけです。

 

で、私はヨーガとか座禅とかやってますが、こういうものには一応目標があります。この目標はいろんな名前で呼ばれていますが、簡単にいうと「善くある」ということかな。だって人の"さが"とは「善くあれない」というものだから。それはTVニュースを見ればすぐ分かります。あるいは家族や友人にどうしても毒づいてしまう自分を見れば分かります。あるいは、どうしても自分自身を具合悪くしてしまう自分を見れば一目瞭然です。

 

善くあるために、世界が動いているように見えますか?

 

この人間のさがを「超越」して乗り越えた場所を、ある人たちが発見して、それを「神」とか、「仏性」などと呼びました。

これだけが善くあるための方法であると伝えられてきたものが、宗教というものです。残念ですがこれは大きな誤解をうけてきたし、悪意によって利用されてもきました。それだけ誤解されやすいことを扱っているということです。

 

ある面から見れば、ヨーガなり仏教なり、すでにやっているんであれば、「善くある」ためのスタートはきっているということです。

じゃあ、やっていない人はどうなるの、やるはずもなさそうだし、善くあるなどという発想すらなさそうな人も、なかにはいますよね。

この人はどこまでもこうだろうなという人、そういう人に対して、それでもまあ大丈夫だろうと感じます。実際のところ、もうどうにもならないのは明々白々ではあるのだけど、それでも「いつか」は大丈夫だろうと。つまり、別の「とき」に!

 

だって、人がこうしてあることの目的が、「善くある」ことだと感じるからです。ですから、人がこうしてある以上、どのような形であれ目的にむかってゆくのは当然であろうと感じます。だったら今は悪くてもいいや!ということではないですよ、その逆のことを言っています。

「善くある」ためにあるんだとしたら、善くならなければならないわけで、悪くあり続けることは自然の流れに反しているし、それ故に苦しい在り方であるはずです。

 

 

「前世」という言葉に対して、私はこんな風に感じています。