広島にて

 先週、マインドフルネスの会の行われた、香川、ついで広島と、山下先生に付いて行って参りました。

日本とは本当に豊かなところですね、瀬戸内海でとれる魚介は絶品だし、瀬戸大橋から見る景色はそのまま世界遺産になりそうな、いつまでも見飽きることのない風景です。


さて、今回なんといっても目玉は、20数年ぶりで行った原爆資料館、平和記念公園です。

 

 

あの場所で見ることが出来るものとは、この世界の縮図というか、圧倒的な普遍性のようなものではないかと思います。

それをなんとかお伝えしてみようと思います。

 

 ガラスケースに収まった「平和宣言」の冒頭に、起こったことを簡潔に説明する文章がありました。


皆さん、72年前の今日、86815分、広島の空に「絶対悪」が放たれ、立ち昇ったきのこ雲の下で何が起こったかを思い浮かべてみませんか。」

 


ここでいう「絶対悪」。最悪の場合、絶対悪と呼べる形で現われてしまうものを、我々は、誰でも同じく持って、生きています。


これが「エゴ」です。
エゴは、ヨーガやスピリチュアルな伝統では、乗り越えるべき重要なものとして研究され伝えられてきましたが、表舞台にはこの問題はあまり出てきません。それだけ難しい問題だということ、軽々しく扱えるものではないということです。

エゴとは、広島で起こったことを見れば分かるように、誰ひとりとして得をすることのない、最悪の場合自分自身を含む全てを破壊しつくしてしまうものです。エゴが破壊をする様は、なにも広島のように圧倒的な悪として現われたものを見ずとも、少し周りを見渡せば、あるいは自分自身を省みれば、そこに見つけることが出来ます。

 

いいですか、エゴとは、一人一人がそれぞれに乗り越えるべきものです。

 

お酒やドラッグ、あるいは欲望を満たすことに依存することも、自分自身を破壊する行為です。その時は一旦満たされますが、これは一時的なものでしかないので、さらに求め続けて、最後は自分自身を破壊するところまで行くことも少なくありません。酒などの具体的、物理的なものに限らず、もっと抽象的な個人の歴史という物語によって、ネガティブなものを助長し続けることもあります。個人のストーリーによる劣等感、無力感、焦燥感というネガティブなものを誤摩化しきれずに、やはり破滅に至ることも稀ではないのは、少し周囲を見渡せばわかることです。

 

ところで、瞑想を続けていてたまらなく面白いのは、「私」の内で起こっていることが、覚めて観察できるようになってゆくことです。これはもうやみつきなります。 

「私」の内で起こっていることの多くはエゴによるものですが、わかりますか、ここで、エゴを外側から見ることの出来る在り方にシフトしているということ。
「私」はエゴとして現れもしますが、それを「エゴ」として外側から眺めることの出来る〈私〉として在ることもできます。

 

 

私というものは、二重構造として在ります。

 

私において世界は存在しますから、世界も二重構造として見えてきます。

 

広島で感じたものとは、絶対的な悪として現われたものと、それによって逆説的に明らかになったもう一つの絶対的なもの、この二重構造としての世界の縮図をそこに見ることによってではないでしょうか。そんな風に具体的に説明できるわけではないのですが、善も悪もない、その彼岸にある普遍性とでもいうもの、強く心を打つものです。