仏縁

不思議なことですが、あることとの縁のある人とない人とがいます。

あることとは、ここでは仏縁と呼んではいますが、何も仏教に限ったことでなく、哲学者の永井均さん流にいうと「端的な事実」、あるいは誰にとっても普遍的な事実のことです。

 

瞑想を続けてきて四年目になりますが、色んな人たちが坐禅会に出入りするのを見てきて、「縁」というものの不思議さを感じてきました。

 

まず、お釈迦様が最初に説法したといわれる四聖諦(ししょうたい)「苦・集・滅・道」、一つ目の苦諦(くたい)を理解する人としない人がいる。

苦諦とは、「この世の一切は苦である」というブッダが発見した真理ですが、そうは感じないというのが世間のマジョリティーのようです。お坊さんたちの中ですら!
(写真は昨年南インドでのリトリートのヨーガクラスの様子)

 

 

苦諦は、それこそ入り口ですので非常に重要なものです。この世界とは、そしてそこに生きる「私」の存在とは、基本的に苦しみの存在である。これを理解しない限り、そこから出てゆくことも不可能なんです、入り口がなければ出口もない。

私がまだ十代の頃、お釈迦様が「この世は苦しみだ」と言っているらしいと知って、度肝を抜かれたのをおぼえています。「そうだよね!」と、この人は真実を語っていると直観的に感じました。そしてこれがニヒリズムではなく救いであることも。

 

 

で、ある事実があるわけです。しかしこの世というものはその事実をねじ曲げて隠してしまうことであらゆるひずみを抱えている。そのひずみがわれわれ自身を苦しくしています。ですから、この世界の在り方に何らか違和感を感じる、苦しさを感じるということは、ある事実への入り口なんですよ。

しかし、この苦を理解しない人がなんと多いことか。

 

あるいは、なんらか苦しさを感じて門を叩いたはいいけど、そこで出会ったある事実に対して、どうしても受け入れられないという態度があります。その人たちにとってそれがどう見えるかと言うと、「危険」であり、非常に怪しいものであり、時には怒りを感じるものであるようです。中には実際に攻撃してくる人もいる。「豚に真珠」ということわざがありますが、これはもとは聖書の中の一節です。真珠とは真実のことであり、豚に真実を与えてはいけないということを言っています。豚はそれを踏みにじって襲ってくるからです。

とまあ真実とは、多くの人にとってこれほどまでに受け入れ難いことのようです。

 

で、不思議なのは、これが真実であるとわかるこれ、この事態です。これについては頭の良し悪しとか生い立ちとかはまず関係ないです。何故よりによって私がこれをわかることができるのか、わかるからわかる、としか言いようがないわけですが、これが「縁」です。

 

 

さて、池田晶子さんは「わかる」のは自分ではないと言っています。

 

「わかる」と「わからない」の間には、意志や努力や他人の命令を拒絶する決定的な断絶がある。しかし、意志し努力し他人の命令に応じようとするところのものとは、ほかならぬ、「自分」、「自分の」力である。ということはつまり、「わかる」という事態は、「自分の」力によるものではない、「わかる」のはじつは自分ではないということなのだ。(『残酷人生論』より)

 

 

 

これは、縁なのです。