知と信

前回、努力や意志を超えたところにある縁について書きました。

もっというと、縁があるということは、既に知っているということではないかと感じるのです。

 

瞑想も、努力や意志を超えたところにあるなにかに触れてゆくものですが、その場所は、それこそ努力や意志を拒絶する決定的な断絶の向こうにあります。ですから、瞑想に入るということは、あるジャンプが必要になります。禅ではこのことを「百尺の竿頭」と言ったりするようですが、要するに百尺もある竿の頂点から一歩踏み出せば普通は真っ逆さまですが、その一歩先にあるものに対する信があれば踏み出せる、ということ。Leap of faithという言い方もありますが、同じです。

 

断絶を飛び越えさせるもの、これが「信」です。

向こう側に対する信頼、これがなければ一歩踏み出せない。

ところで、向こう側に行くには努力も意志もきかないのでした、ここを飛び越えさせるものは、(自分の)努力や意志を超えた絶対的な信頼です。

ここを超えるには自分(エゴ)を手放さなければならないわけですが、しかしこれは簡単な仕事ではなく、私の先生は「ありとあらゆることが必要」だといいます。ですから、ヨーガやあらゆる宗教には戒律があるわけです。

 

さらに、エゴを手放すには、手放した先に対する信頼が必要だといいます。

そこで、こういう疑問が湧くわけです。手放した先を信頼するには、それを知っていることが必要ではないか、とね。そうすると、向こう側を知るためには信が必要であり、しかし、信にはそれを知っているという前提が必要であり、卵が先か鶏が先か、と、こういう疑問が湧いて来るわけです。

 

 ここで最初に戻るのですが、また「縁」が出てくる。

「知」には「信」が必要であり、「信」には「知」が必要なのだけど、この断絶を超えさせるものは、やはりどこからともなくやってきた信、あるいは確信だと感じます。

 

もう少し詳しくいうと、すでに知っていた、以前から知っていたという感触。この感触から自然に口をついて出て来るのが「縁」という言葉です。

 

 

ヨーガにもバクティという信仰を説くものがありますが、あれは(妄信的な)信仰ではなく、この確信に触れてゆくことを説いたものです。

 

 妄信の意味での信仰の、なんと頼りないことか。

 

そもそも信とは確信のことであったはずですが、現在ではほぼ妄信の意味で浸透しています。このことが宗教を人々から敬遠させる大きな理由になっていると考えています。

特に、このあたりの言葉は手垢にまみれていますが、我々はまず言葉には手垢がついてしまうことを知らなければなりません。