瞑想とは

 

 

To study Buddhism is to study about yourself, to study yourself is to forget about yourself

(ゾンサル・ケンツェ・リンポチェ)

 

 

今月末に瞑想会をするのですが、まず瞑想ってなに、ということを説明しなければならないわけで、すべてはほぼここにかかっていると考えています。

 

私は、本当に幸運にも実際に瞑想に入っていった人に巡り会えたので、この人を通して「瞑想」がどういうものかということが少なからず分かるのですけど、そうすると巷で目にすることの出来る、瞑想やマインドフルネスについての説明が、非常に難解であり謎にみちているのがよく分かるのです。

瞑想とはもっとシンプルであり、かつ非常にラディカルなものです。

 

瞑想として何をするかと言うと、まずは何かに集中することをします。集中する対象は様々ですが、最もオーソドックスなのが呼吸に意識を向けることです。アーナパーナサティといって仏典にもある瞑想法。

 

ところで、実際にこれをやってみればわかりますが、呼吸に集中するなんてことは全然出来ません。吸って、吐いて、吸って、吐いて、、くらいは出来るかもしれないけど、すぐに「そうだ帰りにあれやらなきゃな」とか全然違うことを考えている。

 

瞑想者は、まずこの事実をまざまざと自覚しなければなりません。

 

いいですか、瞑想は「この自分」がするものじゃないです。

しかし、我々はずっと「この自分」できたので、この自分以外で瞑想すると言われてもよくわからない。それでも瞑想を続けていくと、ある事実がわかってきます。

 

「この自分には、瞑想はできない」ということ。どんなに頑張っても呼吸に気づき続けることなど、自分にはできません。このことを自覚するということは、一種の敗北と同義であり、敗北しきるには徹底的に負けを認めなければならない。ヨーガナンダという人は、このことを「エゴを手放すことは、悪い歯を一つ残らず抜くようなものだ」と言いましたが、これは悪い歯なのです。あれば痛み続けるし、抜くとなればそれもまた痛みをともなうのです。

 

では、瞑想体験としては具体的にどういうものかというと、これは意図せずかってにやってくるものです。というか、意図しているうちは、まずやってきません。やってきたその場所では、あらゆることが可能です。呼吸に気づくことも出来るし、すべての人に慈悲を持つことが出来ます。そして、身体にも心にも不快なものは一切存在しない。

 

ここに入ってゆくには、瞑想に入ろうとか、呼吸を見ようとする「我」を手放すしか方法はありません。

 

このことをもう少し整理すると、いくら頑張っても瞑想に入ることの出来ない自分があり、同時に、瞑想に入って呼吸をみることが出来る自分がある、二つの主体がある、ということになります。このことをそもそもふまえていないと、どこまでも「この私」が瞑想に入ろうと頑張って徒労に終わる、という事態を免れることはできません。

 

ケンツェ・リンポチェの言葉通り、ブッダの教えとは、自分自身を学ぶことであり、自分自身を忘れることです。

 

瞑想に入ることの出来ない、忘れるべき、あるいは手放すべき自分と(それは実は虚構の自分なのですが)、そしてそもそもの本質的な自分、この二重構造を我々は生きています。

 

そして、手放すべき我(エゴ)は、いずれいやでも手放さなければならない日がやってきます。エックハルト・トールはこう言います。(「The Power of NOW」より)

死は、わたしたちから「本当の自分」でないものを、すべて剥ぎとってしまう。

 

生きることの秘訣は、「(肉体が)死ぬ前に死ぬこと」であり、しかも「『本当の自分』は死なない」と、

さとることだと言えるのではないでしょうか。