瞑想を始める

 

なぜ瞑想をするのでしょうか、何かを得るためですか。もしくは、ほかにはなにをやってもうまくいかなかったからでしょうか。瞑想を始めるといっても、色々と動機はあると思いますが、一番大事なことをお話しします。

 

一つ明らかなのは、瞑想とは、他の誰でもない自分自身の心を扱うものだということです。

人は、自覚するしないに関わらず、それぞれに問題を抱えながら生きていますが、それら様々な問題をどうやって解決するか、これが鍵です。

何か欠落によって問題があるならそれを満たすことで解決するし、状況に問題があるなら状況を変えればいい。

 

はたしてそうでしょうか。

 

一見うまくいきそうですが、そううまくいかないことは経験的にわかるはずです。ですから、問題は次から次へと起きてきます。問題とは、終わることなく起こってくるものです。

 

なぜなら、人の心はあらゆるものごとを問題視することに長けているからです。

このことを仏教では「分別」と言いますが、良い意味ではなく、ものごとを判断して「良い」「悪い」と仕分けすることを指します。ものごとにたいしてあれこれと思考を働かせて、いらぬ心配をしたり、何度もなんども後悔したりする。ものごとを問題視することこそ、われわれの思考の主な仕事です。

 

そうやって、次から次へと起こる問題をなんとか解決しようともがき続けるうち、自分を取り巻く「外の世界」をどうにかすることで問題を解決しようとするベクトルは、そもそも違うのじゃないかとだんだんわかってきます。問題は、自分を取り巻く世界を問題にしてしまう、自分自身なのではないか。

 

この、自分自身にベクトルが向くことによって初めて瞑想は始まります。

ここがスタートでもあり、そしてまっすぐゴールにつながってゆくところでもある重要なところです。

ところが、「状況や他者が問題なのではなく、それらを問題視する心が問題なのだ」ということに気づくのはそうたやすいことではありません。この難しさが、そのまま瞑想を実践する、あるいは実践し続けることの困難さに現れてきます。

 

瞑想で深めてゆく、この探求以上に意味のある探求はないという確信を、未熟ながらもヨーガを通して日々お伝えしていますが、もちろん私自身の拙さも理由ではあるでしょうが、実際に瞑想を始める方はもちろん、始めたはいいが続ける人はほとんどいません。私にとってそういう状況を目の当たりにするのは本当に勉強になります。人間の心とは、いったいどういうものなのかということを。

 

ところで、「世界は客観的に存在している」という、世間では疑いもしない事実を、実はそうではないのではないかとうすうす感じている部分が、誰にでもあると私は思っています。たとえば、この世界で奇妙に立ち回っている自分自身に対する違和感だとか。誰も疑っていることを実際に口に出すことはなくても、どこかで諦めながら奇妙な世界を立ち回っているのではないかと。

 

瞑想は、ここにいかに素直になるかが勝因となってきます。