死について 1

死について話します。

 

私はヨーガを生業にしながら仏教瞑想を実践していますが、重心はもっぱら仏教の側に傾いています。

正確にいうと、実践を通して開けてくるリアリティーを深く学ぶのに、仏教や、あるいは宗教者の立場をとらず活動するエックハルト・トールや、哲学者の池田晶子さんなどのテキストに深く拠っています。(ところでこの縁もゆかりもないふたりは、驚くほど同じようなことを言いますが、それはまたいずれご紹介できれば)

 

一言で言うと、ヨーガの教科書よりもこっちの方ばかり読んでます。こっちの方が圧倒的に面白いから。

 

しかし、これらを学ぶことはヨーガを学ぶことに等しいと思っています。あるいはもっと効率がいい。実践を通して見えてくるリアリティーをもってすれば、ヨーガの聖典をリアルに読むことができてしまうからです。聖典を「勉強する」必要などないのですよ、聖典とは「謎」そのものですから、 聖典が読みたければ実際に「謎」に触れてしまうのが一番です。というか、それ以外に聖典を読む方法はないです。

 

今日は死について話しますが、この主題はヨーガにおいてもメインの主題です。

仏教や世界中の宗教がこれを主題にしているといっていいと思います。

 

人は生きて死ぬ、この大きな謎。

 

仏教では、死はないといいます。般若心経には「無老死」、老いも死も無いとあります。

そして、ヨーガの聖典の一つ、バガヴァット・ギーターでは、「滅ぶのはわたしたちの肉体であって、魂は永遠に残る」ということが繰り返し説かれます。

キリスト教では、十字架に架けられ息を引き取ったキリストが、墓に埋葬されたその三日後に復活する、というのがメインテーマです。

 

一様に、死なずに、なにがしか生き続けるものを示唆している。

 

 

ところで、私自身の、ヨーガ、あるいは瞑想を始めた理由は、死を乗り越えたい、などというものではまったくなくて、もっと瑣末な、同時に切実な、生きにくさそのものが理由です。しかし、瞑想を続けるうちに、実際に、死はないのだ、ということが徐々にわかってきています。

そして、この点がわかることによって、生きにくさも同時になくなってきている。

 

人を生きづらくさせるものと、死、あるいは死に対する恐れは、同じものであるということがだんだん見えてきます。

 

池田晶子さんは2007年に 亡くなりましたが、この人は死に対する恐れを持たなかった人です。やはり、「死はない」といたるところで書いています。そして、「わたしには確信がある」とも。

 

私は残念ながらまだ確信はできませんが、(この点をごまかしては決してならない)それでも徐々に死はないということに触れつつある。

 

そして、仏教とは、この「確信」をいいます。

 

死後の世界を信じる、などという甘っちょろいものでは、仏教は決してないです。