死について 他者の死とは

大概は親とは先に逝くものです。うちは両親は健在ですが、想像するに、亡くして初めて予想以上の悲嘆を味わうのだと思います。それで、あんまりきつくて、鬱になってしまうということも聞きます。

他者の死がなぜ悲しいのでしょうか。親はとはつまり、一番近い他者です。

 

 

うちは世間的にはまあ勝ち組と言える生活を得ることに成功しました。父は医者で、たぶん収入は普通より多くて、私もこれでもかというくらい脛をかじらせてもらいました。

しかし、それが本当に勝ち組みと言えるのか?

 

言えないですよね、彼らが本当の意味で満たされていないということは、長年一緒に暮らしてきて分からないはずがありません。

しかしながら、世間の指し示す勝ち組みなどと言われる価値に、あまりに盲目的な信仰を持っているため、人々は「真の意味で満たされている」あるいは「満たされていない」ということもわからないくらい麻痺してしまっています。世間ではこれが価値なんだから、これでいいのだろう、というぐあいに。

 

しかし、真の意味で満たされていないのは依然として事実としてあり、それが、彼らの表情に現れているわけ。

なんか、暗いんです。

 

親の暗い表情を見続けてきた子供も、彼らが何か問題を抱えているということはどこかで知りながら、世間的には価値のある生活を送っているのだからと、深くは考えません。

 

で、そのまま歳をとって、老いた両親を先に見送ることになるのですが、こんなことでいいわけがない。

 

子供は両親の暗い表情に胸を痛めたまま彼らを亡くし、親は暗い表情のままその生を終えるなんて、どこにも救いがない。

 

これは、うちに限ったことではなくて、人々は何かを深く諦めていて、その濃い影を顔に落として生きています。電車に乗って周りを見回して下さい、この事実を見ることができるはずです。

 

 

 

子供の頃、よく家族で休みになると旅行に行ったものです。

楽しかったという記憶より、何かを探してしたという記憶、あるいはその欠落による痛みのようなものが記憶に残っています。

 

ところで、最近わたしには、あの時探していたものがなんだったのか、ようやくわかってきました。

あ、これを探していたのか、と。

おそらく、人とは、その人生を通して、これを探しているのだろう、というそのことがわかってきた。

人々がどこまで自覚的かは別として。
しかし、ほとんどの人はどこかの地点でそれを諦めます。何を探していたのかすらわからないまま。

その絶望が、人の顔に濃い影落とすのです。

 

私は今、両親にこのことを伝えたいと思っています。探していたものはここにあるよと。

これを伝えることができれば、回り道をしてきたことも全てが報われます。

 

どんな親たちも、同じことです。

誰もが等しく死ぬわけですから、結局は、誰も真の意味で勝者にはなりえないのです。

 

 

全ての、親を持つ子供と、子を持つ親とにこのことを伝えられれば、

その死による悲嘆は、もうこの世からなくなります。