帰依とは

日本で普通に生きているかぎり、お参りでもなければ「礼拝する」機会などまずないと思いますが、私は実は座禅会で毎週お拝をしてますし、接心では毎朝、インドのブッダホールでは入るたびに五体投地をします。ヨーガにも『太陽礼拝』がありますけど、この礼拝とは何なのかについて。

 

簡単にいうと、この限りある「小さな自分」を投げ出して(ひれ伏して)、自分を超える「大きなもの」に対して礼をするということです。

 

『帰依』という言葉がありますが、これを最もシンプルに表現する行為が礼拝といえるでしょう。

 

帰依とは、ある場所を唯一のよりどころ、『避難所』とする、ということです。英語で避難するという意味のrefugeが、take refugeとなって帰依するという意味になります。パーリ語では『サラナン』といい、三つの宝、すなわち『仏』『法』『僧』の三宝に帰依する三帰依文というお経があります。

 

ブッダン・サラナン・ガッチャーミ(ブッダ/仏に帰依します)

ダンマン・サラナン・ガッチャーミ(ダルマ/法に帰依します)

サンガン・サラナン・ガッチャーミ(サンガ/僧に帰依します)

 

南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経の『南無』もまた同じ意味であり、阿弥陀仏を唯一のよりどころとすると念ずるのが、念仏です。

 

帰依先の呼び名はそれぞれ違うものの、今われわれは火事の真っ只中におり(仏教では『火宅』といいます)そこから脱出した先の絶対的に安全な場所、といえましょう。

 

ところでこの帰依、拠り所とする場所に対する信頼がなければまず不可能です。

さらに、信頼したくとも、避難先があることをなずはうすうすとでも知らなければ、信頼のしようもない。

 

ですから、まずは避難所があることを、知らなければなりません。

 

そして、ここがもっとも重要かつ難儀な点ですが、帰依とは、絶望と同義であるということです。

どういうことかというと、われわれは今現に火事の真っ只中にいるのだ、ということです。

このことについて、あらゆるスピリチュアルな伝統が様々に言及していますが、ヨーガではこの世はマーヤー(幻)であるといいます。仏教では一切はデゥッカ(苦)であるといい、キリスト教では人は原罪を背負っている(原文の直訳は、まとを外している、という意味)といいます。

 

 

毎年、合同リトリートが行われるカトリックの施設にゆくのですが、聖堂にある十字架にかかったキリストを見るたび感じる凄みが、年々増してゆくのを感じます。

あれは、私たちの姿です。

今現に十字架にはりつけられているのが、私たちの実態なのです。

 

聖書によると、イエス様は十字架の上で一旦息をひきとり、そして三日後に復活します。

 

 

この復活の場所こそ、サラナン、避難所、帰依の先です。

キリストの死と復活、これが意味するものとは、小さなわたしの死と、大きなわたしの復活です。

 

ここが不思議なところですが、避難所とは、わたしとして体験されます。

この、絶対的に安全な場所を自分の内に発見するためには、今までの自分は一度死ななければならない。

古い自分の背負う罪に、あるいは苦しみに絶望しきってはじめて、古い自分の死と新しい自分の復活を経験します。

 

帰依とは、古い自分を見切って、新たな自分をそこに見ること。

 

最後に、ヨーガにも『バクティ・ヨーガ』という、帰依や信仰によるヨーガがありますが、

『バガヴァッド・ギーター』第12章バクティ・ヨーガより。

 

12-6

'わたし'に熱い信仰をもって

すべての行為を'わたし'のために行い

常に'わたし'を想い 念じ

常に'わたし'を礼拝し 瞑想するものたち

 

12-7

常に心を'わたし'に結びつけている者たちを

プリターの息子よ 

'わたし'は速やかに

生死の海から救い出す